Statement

金子千裕は分野横断的な活動をする写真家だ。
彼女は自身が持つ問いの答えを探して制作を行う。

現在、彼女が取り組んでいるのは「境界性」と「認知」への疑問。
例えば民俗学の祖、柳田國男はその著作「妖怪談義」の中で
「夕をオオマガドキだのガマガドキだの名づけて、悪い刻限だと認めて居た感じは町では既に久しく亡びている」
「東北地方で黄昏をオモアンドキと謂うのも、やはりアマノジャクが出てあるく時刻だというから、『思わぬ時』の義であったらしく考えられる」
と記している。

金子千裕はまさにそのアマノジャクの話を聞いて育った東北地方の子どもだった。
「かわいそう瓜子姫、かわいそうな瓜子姫」
仙台弁で祖母がアマノジャクの恐ろしさをそう語っていたのを覚えている。

そのためか、あるいは別な理由があるのかはわからないが金子は夕刻を「怖い」時間帯だと感じる時がある。ノスタルジーの底に小さく低く流れる「異様さ」が夕刻にはある。

金子は考える「なぜ自分はそう感じるのか?」そして「先祖たちはどうしてそう思ったのか? 何をどう認知していたのか?」「それは人間に先天的、普遍的にある感覚なのか。それとも柳田國男が記したように『既に久しく亡びた』ものなのか」
金子はかつて「悪い時刻」とされた夕方の少し前から、宵の口にかけて異界と現世の隔てるとされていた場所、例えば坂、橋、山、境、辻(交差路)などに立ちその様子を記録する。
彼女の奥底にある何かが反応した光景。心がざわめいた光景。それを写真に落とし込む。そうした写真は金子に自分の認知を呼び起させる。
「他者も同じだろうか? 他人もわたしの心がざわめくものにざわめきを覚えるだろうか?」
彼女は写真を発表し、見る人を観察する。そうやって疑問への答えを出そうとする。
観察し、仮説を立て、実験し、考察する。それを繰り返す。

また認知への疑問は「身体性」「意識と無意識」「記憶」「遊び」などの興味、疑問に発展する。人間は身体をもって世界を認知する。しかし、それは真の世界だろうか?
金子は考える。
「目に映るものが全て認知できているとは限らない」
「意識の上に浮かぶものと、無意識に沈むものの違いとはなにか?」
「肌で音を聞き、鼻でものを見ることもあるのではないか?」
「わたしたちは世界の断片しか認知できない。見ること、記録することにおいてはカメラに劣ることもあるのではないか?」

そうした時、心の学問からかつて学んだ工学、あるいは近接学問である理学への横断が起こる。もし現実を写真に落とし込む以外のことが必要であるならば、金子はそれを行う。必要であれば彼女は絵筆を握るし、静止画から動画へ表現を変えることもある。

「そうやって疑問への、一時的であれ答えを少しずつ蓄積していくことにより、世界全体の姿を捉えることができるのではないか?」
そう金子は考えている。
なぜなら金子は大学時代に材料工学を学び、エンジニアとして就労していた過去をもつ。そこからミクロの現象がマクロの現象につながっていることを肌で感じてきた。
金属の延性は金属原子の電子殻のに由来する。金属の破断は金属結合の破断、外力が金属結合、つまりは金属原子同士が電子を共有できなくなるほど強い力で引き離されるときに起きるとされる。
原子のモデルに用いられる図はどうしても量子でもある電子を表現するのが難しい。電子は等速で原子の周りを惑星のように一定の軌道で回っていると思われがちだが、実はそうではない。わたしたちが観測するまで電子がどこにあるのかは確定しない。
物体の破壊に出くわしたとき、その背後にある電子など素粒子まで想像力が必要とされることもある。
事故にしてもその背後にある事故に至らなかった事例に目を向ける必要がある。
小さな物事の積み重ねが重大な事故につながる。その逆も、もちろんある。

ミクロとマクロがつながっているのであれば、ミクロな問いの積み重ねはいつか必ず、世界を真に知ることにつながるのだから。
自分の代では不可能かもしれないが、後に続くものが必ず。

以上のことから金子千裕は問いの答えを探し、歩く作家といえる。